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「言葉の階(きざはし)」第八章:校歌を覚えている?

2018年7月3日 火曜日

「言葉の階(きざはし)」第八章:校歌を覚えている?

特別連載企画 第八回

~  校歌を覚えている?  piano-558452_960_720
 
例年春の高校野球=選抜高校野球というのは、あまり注目しない。
47都道府県各地の予選を勝ち抜いて甲子園に出てくる夏の全国大会なら、我が地域の代表という気持ちも強い。
春の大会のように、出場しない都道府県があったり、逆に今回のように一県から三校も出てくると、
そんなにこの県はレベルが高いのかと思ってしまう。高校野球を観る時、間違いなく応援する高校はある。
その肩入れする理由は単純だ。まず自分の住んでいる都道府県の代表校、その次に関東なり、
関西なり各地域へと応援する高校も広がっていく。
だから主催者が出場校を決め、大会に出場しない都道府県もある選抜大会は
「おらがふるさと」の代表といった印象もない。
今年は仕事もなく、暇だった為か、オリンピック、大相撲とスポーツ中継が続いたせいか高校野球も結構観た。
そして面白かった。予想通り、ドラフト候補を並べた大阪桐蔭高校が優勝。
決勝の相手は同じ関西の智辯和歌山高校と面白くも、なんともない結末だが、
準々決勝、準決勝で見せた智辯和歌山高校の脅威の粘り、県立進学校彦根東エースの精密機械のようなピッチング。
前評判は全然高くないのに、自由奔放の野球でベスト4までいった三重高校。
ありゃ関西勢ばかり・・・どうもレベルの高い試合を提供してくれるのは関西が多い。

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「言葉の階(きざはし)」 第七章:商店街

2018年6月26日 火曜日

「言葉の階(きざはし)」 第七章:商店街

特別連載企画 第七回

~  商店街(2)

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幼い頃過ごした町はその佇まい、道、店等いつまでも記憶に残る。
どこにどんな抜け道があって、どこにどんな友人がいたか鮮明に覚えている。
いい年齢になってから居を構えたところは、暮らす歳月が長くなっても覚えが悪い。
あちこち歩いても馴染みの店ができても、幼い内から日々の暮らしを過ごした町ほど強く心に残っているものはない。
野口五郎の「私鉄沿線」という歌曲がヒットしたのは高校を卒業して間もない頃だった。
都内に住む人間の多くが私鉄沿線であったこの頃、
結構多くの人がこれは自分が利用している沿線ではないかと想像したような気がする。

「池上線」というより具体的な沿線名を歌った西島三重子の歌が出たのは、そのさらに1年後だ。
まさに、この歌詞で記されているところは自分の町だ。と思ったが、
何年か後作詞者から、「あれは池上が舞台です」と公表された。
やはりこういったものは、聴き手のイメージに従うものである以上、知るべきではなかった。
歌詞の中で車両に風が入ってくるといった、
いかにも古い車両といった姿を綴っているので、結構クレームも出たようだ。
そういう事実を踏まえても、男女の想いを詞に託せば共感する。
今時こんな車両と疎んじられていた池上線がその不便な旧式であるが故に人々に注目されることとなった。
昔ながらの商店街は、不便ゆえに言葉を交わさなければ、商いという行動が成立しない。
駅舎は機械化が不十分であるがために、人の力に頼らざるをえない。
いつまでたっても旧態依然の風情を残して、町は成り立っていた。
スーパーマーケットのようなところで買い物をしていると、老化が進むという。
買い物とは、商品を手にするたびに、買いたいという衝動と押さえようという自制が働く。
そして購入に際しては、財布から適正なお札と小銭を用意する。
この思考過程と行動パターンがボケ防止にいいようだ。
世の中便利になっている。スマホひとつでレジに足を運ばなくても、買い物ができるようになり始めている。
テレビの報道番組でレポーターが「これで手間が省ける」「ストレスがたまらない」と笑顔で話していた。
しかし、便利になる――それがストレスのたまらないことになるのだろうか?
言葉を交わすことなく、スマホをかざすだけで物事を処理することが、人間にとって、望ましい方向なのだろうか?
幼い頃歩いた道が記憶の中に強く残っているのは、その道が自分の足で歩んだからだ。
今日は違う通りから行ってみよう、ここの番地はこうだから・・・と自分の目と足でその道を覚えていった。
商店街は、そして間違いなく学びの場でもあった。

「言葉の階(きざはし)」第六章:商店街

2018年6月18日 月曜日

特別連載企画 第六回 
~  商店街 
 
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私が生まれ育った町は、五反田と蒲田を結ぶ池上線沿線にある。
この沿線はどの駅で降りたっても、その長さに違いはあるが、駅から商店街が延びる。
駅の近くには、花屋と薬局があって、歩を進めると、八百屋や肉屋、魚屋という食卓をにぎわすものを扱う店が並ぶ。
そして私たち子供にとってなじみ深い文房具、本屋、そしてお菓子屋といった店舗も目に入ってくる。
当時、食品ならなんでも揃うスーパーマーケットはあることはあったが、商店街の中心はあくまで小売店ではあった。
梅雨時になると、時節柄多くなってきたハエがたからないように、
天井から吊るしたハエ除けテープがのんびりと回るようになり、
お菓子屋のアイスボックスにはいかにも冷たい感じのキャンディーがあふれる。どれも夏の風物だ。
さまざまな工夫を凝らして、日本人は夏の暑さをしのぎ、虫の被害を押さえていた。
なんてしばしそんなもんに目をやっていたら、打水をかけられた。たしかにこれなら涼しい。
今ではこんな商店街の姿をあまり目にすることはなくなった。お菓子屋の量り売りでの商売。
魚屋で魚をさばいてもらうこと、籠に入っている果物に傷がついていないか確認すること。
モノを買い求めるということは、会話が始まるということであり、少なからず知恵を付けることでもあった。
量り売りで買うお菓子は、いつもリクエストしたグラム数より多く、「おまけだよ」という言葉が添えられたが、
元の値段が損をしない金額に設定されているのは、当然である。
先日、長野の上田市に足を延ばした。駅を降り立ち、上田城ではなく菅平方面に向かう通りを歩いた。
地方都市の多くはシャッターが下ろされているような状況になっているが、新幹線が走るこの町はまだ人通りも多い。
結構時間もあるので、本屋でもないかと思ったら、2軒あった。
それも懐かしい佇まい――店の扉の手前に棚があって、そこに週刊誌や月刊誌などちょっと気を惹くものが並べてある。
それに回転させながら幼児用絵本を手に取れる、回転式のキャビネット。
「懐かしい」 まさに子供の頃、足を運んだ本屋だ。
今日、本屋は大型店だけが残る状況となってしまった。昔はどこの町にもどこの通りにも本屋はあった。
子供たちは毎週マガジンやらサンデーが発売される日になると、こぞって本屋に足を運んだ。
買う買わないにかかわらず、お気に入りのページを探す。
そんな子供たちもいつの間にか問題集、ドリルを買い求めるようになり、
やがてちょっとエッチな記事や写真に興味を抱き、店主の目を気にしながらそんな雑誌のページをめくったりする。
だからエッチなものを見る時は人目につかない本屋を選んだものだった。
本屋は時折胸ときめくところにもなった。まじめな本でも買いに行こうと、
自分にとって一番メインにしている本屋に行くと、ちょっと気になる女の子がいたりする。
「この店なら大丈夫」とエッチな本など目もくれず、言葉を交わすそんなところでもあった。
一度こんなことがあると、その子がよく足を運ぶ本屋だと思い、何の用もないのにその店に行ったものだ。
それでうまくいったためしがないけど。高校生になると、自分の家から離れた駅で降り立ったものだ。
「あれ、椿君どうしたの?」
「いや、ちょっと本屋に・・・」(そんなわけないだろ)
いずれにしても、本屋の存在は貴重だった。

「言葉の階(きざはし)」第五章:『頑張って!』が気持ちをふさぐ

2018年5月31日 木曜日

特別連載企画 第五回
~  頑張って!』が気持ちをふさぐ 

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受験のシーズンになった。この時期になると、受験生にはこんなことを配慮しよう、
といった内容に触れたものが報道番組やワイドショーでコメントされる。
たしかに自分が受験生だったとき、励ましの言葉、奮い立たせる言葉をかけられると、
意欲よりも、煩わしさのほうが先に立っていた。
「うるさいな、黙っていてよ」
「わかってるよ」とかなり棘のある言い方になっていた。
先日、朝の番組でこんな特集をやっていた。
「受験生にかけてはいけない言葉」。
いろいろあるだろう。「落ちる」「すべる」「外す」・・・
しかし、そんな当たり前の単語より、「頑張って」という言葉が最も忌むべき言葉になっていた。
それまでに、「今日は共通一次試験、受験生の皆さん、頑張って!」なんて言っていたキャスターが
俄かに重い表情になって、「大丈夫ですよ!」と言い直していた。

テレビや新聞などのメディアを通して入ってくる情報は多い。
我々はさほど気にも止めず、流していることが多い。
しかし、私の母のように、社会に出ず、世相に疎い人々はテレビで放映されたもの、
新聞で活字になったものには絶大の信頼を寄せてしまう。よく特集を組むことがある健康のこと。
どのような食物や薬品が身体にいいか?そのような番組を観た人も多いだろう。
「アガリクス」「お茶」「コーヒー」。「チョコレート」というのもあった。
たとえば「お茶」は体内の不純物を流して、美容、コレストロールの制限にはいいだろうが、
体内に十分な水分を補充する、となると逆効果だ。
しかし、特集では当然「いいこと」を流すばかりだ。そうなれば当然、視聴者は絶対的な良薬としてみてしまう。
食物の効能、効果をその日のテーマに沿って示すのだから、当然の成り行きだ。
しかし、食物や薬品に絶対的、万能のものというのはあるのだろうか?
同様に言葉や歴史上の出来事というものも状況や時代によって、評価が変わってくるものだ。
南北朝時代の楠木正成など時代によって評価は変わるし、
坂本竜馬だって「竜馬がゆく」によって広く知られるようになった。
言葉も使う人の表現によって、意味が変貌を遂げることもある。
組み合わせて新しい言葉を生み出したり、意味が変わったり・・・そう言葉は生き物のようなものだ。
そう思うと、言葉を本来の意味で大切に使用したいと思う。
いつの間にか「頑張れ」という言葉が「人を励ます」ものではなく、
「人の気持ちを圧迫する表現」となるときだって来るかもしれない。
私はメディアの発することに何ら疑問も持たず、鵜呑みしてしまうことが恐ろしい。
多くの人が、その言葉本来の意味でなく、自分たちが造作したもので理解されれば、
それが一般的なものになるかもしれない。
「頑張れ」という言葉はかけがえのない言い回しだ。
スポーツで自らを、相手を讃えるこのような言葉は唯一無二のものだ。

そういえば、形のない出来事に対して「〇〇という形が・・・」と
報道番組でキャスターが当たり前のように話している。近く標準的な表現になるだろうな。

「言葉の階(きざはし)」第四章:我慢することで見えてくるものも

2018年5月24日 木曜日

特別連載企画 第四回

~  我慢することで見えてくるものも 
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ティールーム、窓際の席に若い男女が向かい合って座っている。
交わす言葉もほとんどなく、下を向いてスマートフォンに興じている。
たまに顔を上げて一言二言。
二人の会話は口に出して語る言葉でなく、スマートフォンに並ぶ文字によって進められている。
私たちが若い時代に携帯電話はなかった。
多くの家庭は三世代が同居し、家にある通信機器はダイヤル式の固定電話が1台あるだけだった。
電話というものは連絡などが必要な時に使うものであって、
プライベートな会話をするときに使うものでも、
ちょっとしたよもやま話をするためのものでも、少なくとも我が家ではなかった。
それでも学校では、電話連絡網のようなものが配布され、
気になる女の子の電話番号も必然的に目に入ってくる。
その相手にちょっと連絡したいことがあったり、聞きたいことがあれば電話できる条件はそろっていた。
テレビは家族そろって観るものだった。だから野球、大相撲、プロレスなどのスポーツ中継。
大河ドラマや日曜劇場などの一家団欒を表すような番組をどこの家庭でも観ていた。
今じゃ考えられないが、大晦日の紅白歌合戦が80%程度の視聴率をあげていたのも、
大河ドラマが安定した視聴率を上げていたのも、
この三世代同居という当時の家族の在り方によるものが大であった。
お正月の準備も済ませた大晦日の夜、そして毎日曜日の夜は用事もなく、
家族そろってテレビを観ようという感じだった。
当然ながらテレビを目にはしていたが、観たい番組を観るということではなかった。

電話も同様だった。「食事の時ぐらいは控えろ」であり、
「昼日中からそんなにかけるところがあるのか」という言葉が投げかけられるのが常だった。
今日のように、観たいものがいつでも観られる、話がしたいときに話すという時代ではなかった。
そんな感じだからまれに女の子に電話する時は緊張する。
胸の高鳴りが激しくなればなるほど逆に恐怖心が芽生えてくる。
すなわち、もしお父さんが受話器を取ったらどうしよう、
こんな夜にどういった要件かと尋ねられたらどうしよう、
そんな思いの末、呼び出し音が何度か鳴るうちに「今日はいいや」と自分に言い聞かせて、
受話器を降ろすこともしばしあった。
「我慢する」「相手の状況を慮る」人に囲まれた生活をしていると、
そんなことを頭に入れておかなければならない。

しかし、今日のように個人主義が強くなり、核家族化が一般的になると、そんな意識は希薄になる。
たとえば電話をかけて相手が出たときにどういった言葉をかけたらいいのか、
たとえば夜何時ごろまでなら電話をかけていいものか、
そんなことを今の若い人は思っているだろうか?話したいことがあれば、いつでも話せる。
伝えたいことがあれば、何時でも可能な今日。
かえって、会えることのありがたみを忘れるようになってしまったような気がする。

私たちは・・・そう、いくらでも話すことがあったかな。

「言葉の階(きざはし)」第三章:三脚

2018年5月18日 金曜日

特別連載企画 第三回

~  三脚
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以前、大学で講師をしていた時、短期大学という女子ばかりのクラスだったからメールアドレスはオープンにしていた。
これが男子ばかりのクラスだったら、こうはしなかったろう。
こっちは渋い中年のつもりでいたが、自分の親父よりも年上の私のことをどんなふうに見ていたのだろう。
それでも、時折授業のことを質問してくれる生徒もいて、そんな時は勇んで懇切丁寧な返答をしていた。
二十歳前の女子大生。
身体は成熟していても、精神状態はまだ高校を出たばかりで、すぐにキャーキャーと騒ぐ。
まさにアンバランスな状態。
勉強というものを押し付けられる高校教育から出たばかりの彼女たちにとって、
自分の責任のもとに授業を選ぶことは多少の自由も感じたろう。
そしてアルバイトに精を出して、その報酬を手にすること、車の免許をとって、
自分のハンドルさばきで道を進んでいくこと。
どこか大人になったような気になってしまうのはごく自然なことだ。
夏休みに入った時期に、そんな生徒の一人からメールが届いた。
夏休みを元気に過ごしていることが感じられる文面だったが、
高校時代と比べ、明らかに自分自身も成長していると感じていたのだろう。
長い時間アルバイトに励み、休みには羽を伸ばしている。
でも、親は以前と変わりなく自分に注意を促す。
そんなことにストレスを感じている、といった内容だった。
私は、子供の躾に関してはあまり偉そうなことも言える立場でもない。
むしろ子供に声をかけるご両親がすばらしいと思ったが、思うこともあったのだろう。
立場上偉そうに返信した。親の気持ちを汲んでもらえるように。
****************************************

子供を可愛くないと思う親なんていないだろうね。
ただ、その表現方法は知らないということは多いかもしれない。
親は周囲が思うほど、大人じゃないし、しっかりとしたものじゃないでしょうね。
子供にも親のそんな面を隠すことは難しいと思います。
そして、いつまでも子供のときの想いを抱きながら、
夢のかけらになってしまったようなそんなものを大切にしていることもあるんですよ。
考えてみれば、両親と子は三脚のような関係かもしれない。
けっしてどちらかが支えるものでもない。
甘えている子供でも、それだけで親に安らぎを与えているのかもしれません。
とすれば、子供であるあなたは、やはり自己をしっかりともつことかな。
ストレスは自分でコントロールするもの、少なくともそう心がけるものだと思います。

*****************************************
親子の関係とは微妙なものだ。
口うるさく言えば嫌がられるし、あまり声をかけなければ、距離が広がっていく。
三脚というのはご存知の通り、足3本で重心がしっかりしているものだ。
その安定感は4つ足や5本足より堅固だ。
しかし、それが一つでもなくなってしまうと、崩れてしまう。
子供として親を一人の人間としてみてもらいたかった。
さほど時を経ず、「よくわかりました」そんな返信がきた。

「言葉の階(きざはし)」第二章:フィギュアスケート

2018年5月9日 水曜日

特別連載企画 第二回

~  「言葉の階(きざはし)」

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■フィギュアスケート
テレビのスイッチを入れたら、フィギュアスケートの競技が行われていた。
だがなんか変だ。音楽は流れているが、解説なり、実況の人の声が流れていない。
故障か?ボリュームを上げてみたが、音楽が流れているのだから、これが正常なのだろう。
番組がチャップリンの時代に遡って、トーキーになったわけでもあるまい。
と、「トリプルアクセル」「ダブルトーループ」いきなり解説者の声が流れてきた。
故障じゃなかった。さほど長い時間じゃないのだろうが、
途中から番組を観て、沈黙が続くと長い時間のような気がする。

それにしても、ジャンプの種類、技術の名称だけを言われても、一体何のことだかわかりゃしない。
冬のスポーツ観戦といえば、マラソンか駅伝を観ることが多い。
ただ走るだけの競技だから解説者の話は多い。
特に増田明美氏は朝の連続ドラマでナレーションを担当したように、口調がなめらかだ。
「長距離ランナー何でもご意見番」とでも呼べるようなその選手のエピソードを澱みなく話す。
芸能人の誰が好き、どんなスイーツが好きなどおよそレースに関係ない話を続ける。
そんな解説に慣れているから、フィギュアスケートの解説は専門用語を並べるばかりで素気ない。
 お客様相手の商売をしていると、いつからか説明の仕方、
お客様との会話が以前と変わってきていることを感じる。
以前はお客様の関心を惹くために、面白おかしく話を進める。
というより、理屈の話は苦手だから、ある種打ち合わせに楽しみを感じるようなものにする。
そんな意識がある。打ち合わせは、進行に従って確認を進めるばかり。
それだけでも誰もが全体像がぼんやりながら掴んでいる感じだった。

ところが最近は・・・やたら分業化している。
「進行」担当「映像」担当「受付」担当・・・。しかもその担当業務に関する知識は豊富だ。
聞かれることが一般的なものならいい。ところが専門的な言葉を並べてくるのが一般的だ。
パソコンの利用応用編的なものになると、全くお手上げだ。
「すみません」とか言いながら、逆に担当業務から離れたことに触れると、その知識の泉は枯れていく。
「それは私の担当ではありません」「〇〇さんに聞いてください」と返答される。
概ね自身のかかわることに深い知識をもつ相手を求めるが、それ以外は感心をもたない。
自身が担当する業務とそれ以外の職務と見事に境界線を引いている。
目まぐるしく変貌していくビジネス社会に、我々年配の人間はついていけない。
打ち合わせと言って「無駄」な話も交えていた時代は過ぎ去り、「簡潔」にモノを言う現代だ。
「今までの経験を生かして」なんて乞われるように雇用期間の延長を望まれる人もいるだろう。
だが、どんなことを会社は求めているのか確認しなければいけない。
そう、今日の打ち合せは、スポーツ解説のように「専門用語」を歯切れよく並べていくもの、
すなわち遊びのないものが基本となっている。

「言葉の階(きざはし)」

2018年4月24日 火曜日

ご好評の椿氏の第一回ブログ連載特集「~クレーム対応のベテラン、椿氏が語る~」に続き、
早速第二回の連載特集が決定いたしました。

椿氏による特別連載企画 「言葉の階(きざはし)」
椿氏が経験から語る、クレーム対応、ホスピタリティ、コミュニケーションに関して
数々の記事を通してお伝え致します。
記念すべき第一回目は
第一章:ホスピタリティーは人の数だけ存在する 
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●メールの問い合わせは怖い
アシスタントマネージャー時代、朝出勤すると、必ずメールをチェックしていた。
「お世話になりました」「ありがとう」ならいいが、そんなものはほとんどなく、
多くは施設、備品に対する不満、対応への指摘。
中にはホテルで食べたもので体調を崩した、備品で怪我をしたと訴えてくる。
こうなると、この先どういうふうに対応するかと、気が気じゃない。
今日のようにSNSが盛んな世の中になると「あのホテル駄目」という風評が広がりそうで、どうにも駄目だ。
何しろ私は、1件のしつこいメールで、落ち着かなかったり、気持ちがふさいでしまうのだから。
届いたメールは救いを求めるような内容だった。
ホテルの宅配便カウンターでギターを海外のミュージシャンに送る手続きをした。
自分で造作を施し、そのミュージシャンのためにと進呈したものだった。ところが、受け取る本人がいることは稀だ。
同居している人間だっていきなりギターが日本から届いてもなんだかわからない。
そうこうしているうちにそのギターがどこかで転売されているという情報が本人の元に入った。
本人はホテルの宅配便業者に調査を依頼。状況によっては弁償を求めるという強硬な姿勢に出る。
宅配便業者は現地に届けた運送業者に確認。現地では受け取り拒否に遭ったりして難儀したようだ。
結局代理の方に届けたようで、受け取り側に問題がある、と結論付ける。結局当事者間では話が進まず。
弁護士を通して本人に返答した。この結論に本人の気持ちは燻っているものがあったろう。
メールには、宅配便業者の調査は不十分であり、嘘が多い。
そんな業者を入れているホテルが何とかしろ、という内容だ。
「それにしてもずいぶん前の一件をぶり返すものだな」宅配便業者も驚いていた。
事の次第は確認したが、ホテルとしてできることはない。
館内に入っているテナントに対して契約上、運営、営業面に関してはとやかく言える立場ではない。
対応に不満があるのなら消費者センターかしかるべき機関に調査を依頼すべきだろう。そうメールした。
その段階でターゲットは私に変わった。同時に表現も変わった。。。。

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【レポート】椿氏によるセミナー第1回

2018年4月11日 水曜日

 

   椿氏によるセミナー第1回レポート2018年3月

https://www.comskillhp.com/wordpress/wp-content/uploads/2018/03/DSC01108-531x353-custom.png

3月、ホテルニューオータニの元支配人であり、
長年クレーム対応をされていた椿氏による
業務ミスにおけるマインドセットセミナーが開催されました。
お忙しい時期ではございましたが、ご参加頂き、ありがとうございました。

当日ご参加いただきましたお客様には、
ワークショップを取り入れた和やかな雰囲気の中、
皆さまとお話しながらセミナーの講習を受けて頂きました。
長年ホテルニューオータニにてクレーム対応をしてきた椿氏による
お客様・状況の分析やクレームへの対処法はもちろん、
人とのコミュニケーションにおける大事なポイントなど、
日々多くの人と関わることの多かった職場での経験を教訓として
セミナーではお話してくださいました。

ご参加頂いた方の中には、サービス業の方もいらっしゃり、
お客様とのコミュニケーションの取り方、
クレームへの対処法に関するご質問には
椿氏ならではのアドバイスもございました。

 
今後も引き続き椿氏によるセミナーを行いますので、
より多くの方にご参加頂けることを楽しみにして参ります。

 
一般社団法人コミュニケーションスキル開発協会

 

あとがき

2018年3月22日 木曜日

文章を綴り終えて
山深い駅舎に降り立つと、一面の銀世界が広がっている。
線路沿いの道路にはどこまでも二筋の轍がうっすらと残り、その跡を消すように、雪がしんしんと舞い落ちている。
行き交う人もまばらな白い道は、私が歩いた証しを表すかのように新しい跡が続いている。
かつては、虚空蔵を参拝するため、多くの観光客が訪れたこの山に囲まれた奥会津の門前町。
只見川の流れに沿うように、旅館が立ち並んでいる。
温泉がわき、雪も降る、しかも標高が高いからさらさらとした雪だ。
旅館街の向いの山にはゲレンデもあった。
しかし、こんな山奥に来なくても、新潟にも福島にもいいスキー場はある。
スキー人口の減少とともにスキー場は閉鎖となった。
観光産業を生業としていれば、一時的なことであっても、訪れる人が多くなれば、観光施設をひろげていく。
だが、事業を広げれば伸びるところもあれば、そうでないところもある。
都会のホテルに目を向けてみる。海外からの観光客が増え、客室数が足りなくなるといううれしい悲鳴も耳にする。
ただホテルの売り上げの3大部門のうち宴会部門は伸びてこない。
元々海外ではバンケット会場の印象というのは希薄で、ファンクションルームという印象が強い。
披露宴にしても、日本のように宴会場という空間で厳かな雰囲気で執り行われるものではなく、
ガーデンなどのオープンスペースで行われるのが一般的だ。
政治家の励ます会、企業の顧客招待といった類もあまりないのだろう。
食事をとるのはあくまでレストランという考えだ。
だから宴会場の料金があまりに高額であることに「信じられない」という言葉を発する。
日本のホテルも宿泊特化型が中心になってきている。
次々にチェーン店をオープンするアパホテルのようなビジネスホテルはもちろん、
外資系のホテルもさほど宴会場にスペース、予算を割かないというのが一般的だ。
以前、披露宴というものは、第一子の披露宴が恙なく終了すれば、
下の子の披露宴もここで、なんて傾向があったが、最近は違う。
「いい披露宴だった」と親族、友達の披露宴に印象をもっても、自分自身はここでやろうとは思わない。
「気に入らない」からではない。
気に入っても自分は「同じところではなく別のところ」を選択するのだ。
これは披露宴に限らず、食事するところであったり、宿泊するところであったりもする。
こうなると収益を確実に挙げられる事業に業務を集約していくのは当然だ。
しかしながら、今日まで日本のホテルは、そして旅館もそうだろう、あらゆるお客様に対応するように営んできた。
こうした傾向にサービスを提供するスタッフはどうするか。
国公賓の出席する会議にも対応する。親族中心の会食にも対応する。
不特定多数のお客様が来館する展示会にも対応する。
それが、日本のホテルの、グランドホテルという冠を抱くホテルのプライドだった。
幅広い職務に携わるように、お客様の嗜好も多岐にわたる。
今回いくつかの文章で記したように、私はこれがホスピタリティーと論ずる術を知らない。
それぞれのお客様に合わせてサービスを模索することが大切なことだと思っている。
「どうしてホテルではコーヒーにこれだけの料金をとるのだろう?」ということを考える。
だから ホスピタリティーを語るのは難しく、深いものだ。
その中で先人たちは日本らしいホテルを作り上げてきた。
新しい企画を生み、あらゆるお客様のニーズに応えてきた。
ホスピタリティーとは、自分で模索するものかもしれない。
まるで山深いこの里で、降り積もった雪で隠れそうな轍。
その上に自分の足跡を新たに刻むようなものだ。
振り返りながら、ふと思った。
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