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第十五章 前半 :ホテルは日常の延長・・・怪我の危険だって


特別連載企画
~ クレーム対応のベテラン、椿氏が語る ~

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●保険適用

ホテルではさまざまな事故が起こる。たとえば紛失事故。
これはクローク、傘立て、時には客室や宴会場でも。
怪我、客室、レストラン、便利になった運搬機械であるエスカレーターやエレベーターなど。
そんなこと起きるわけがないと思っていることが実際に発生することがある。
そんな事故に備えてホテルは損害保険、生命保険を契約している。
2000年3月ゲストサービス課支配人になって、まだ1年もたたないときにその事故は起きた。
そのお客様は宴会に出席、その帰りで宴会場階を歩いていた。
そこにスーツケースを16~17個積んだ台車が近づいていた。
ベルマンは本来前からその台車を引くべきところ、急いでいたため後ろから押して進んでいた。
「支配人、ベルマンがお客さんにワゴンぶつけちゃいまして・・・お出になります?」
「・・・ゴメン、お願いしていいか」

あくまで勘だが、この件は医療費の面倒をみるということになると思った。
いずれにしてもいずれは伺って説明する、となれば、今あまり顔は出したくない――
この時は夜勤の責任者が挨拶をしただけで、翌日改めてご様子を伺うということでひとまず済んだ。
翌日、私は休み。この1件についてはお客様に連絡を取り、お見舞の意を伝えてとだけ指示をしていた。
夕方に係長から電話が入る。前日の件、お客様から電話があり、連絡がないがどういうことか、という苦情。
「電話しなかったの?」
「したんですけど、出なかったんで」
「お客様はどこの方だっけ?」
「大阪ですね」

おそらく午前中に電話して、不在と判断したんだろうな。
お客様は昨日東京に泊まって、今日大阪に帰阪したのだろう。でも時間などは確認していなかったんだろう。
「で、どうすればいい?」
「明日、先方と会ってほしいって部長から・・・」
今日のお客様とのやりとりを確認する。
被害に遭われた方は、大阪・柏原在住の方、勤務地は大阪市内天神。
会える確証がないので、大阪ニューオータニには宿泊の予約を入れてあるとのこと。準備のいいこと。
それにしても、台車に当ったくらいでそんなに痛むものか、クレーマーかもしれないな、という思いが沸く。
明日は午前中病院で診察。午後に会社出社予定。了解する。
大阪のスタッフが気遣ってくれる。ありがたい。居心地の悪い事務所ってあるが、それがない。
自然に電話を借用し、交通網の話をする。なんとなく大丈夫という気がしてくる。
お客様には2度ほど電話をかけたが、いずれも呼び出し音の音だけだ。
お客様の元を訪ねたのは3時過ぎ。3度目にかけた電話が通じ、勤務先のオフィスでお会いすることになった。
前日に比べ、痛みも和らいだのか、おだやかだ。お客様の指摘事項は3点。
1、全く予期しないことが起きた。知人と話をしていたら、突然ワゴンが後方からぶつかってきた。
2、お詫びも通りいっぺんのもので、今後どのように対応してくれるのか全くわからず不安だった
3、昨日連絡いただけると聞いていたのに、何ら連絡もない。本当に誠意ある対応を考えているのか・・・
おっしゃる通りである。私は事故発生時というのは、気持ちが高揚して冷静にはなれないと思っている。
でも時間がたてば落ち着く。その冷静になった時、不信感を抱かせるような対応をしたら駄目、と思っている。
お電話した時、お出にならなかった。とは言える。
しかしお客様にとっては話ができなければ、電話をいただいていないというのと同じ印象だ。
今後窓口はすべて私にさせていただき、治療に要する費用はすべてホテル側で見させていただくと申し上げる。
実はお会いするまで、休業の保障、精神的苦痛に言及されるかという不安はあった。
まだ見ぬ方というのは不安になる。が、クレーマーではなかった。
「このようなことって、よくあるんですか?」
「いえ、ございません。スタッフは常に前方に注意を図るよう、台車を引くようにしています」
「そうですよね」
この日、大阪のニューオータニに宿泊する旨を伝える。
何か不審に思うことなどあれば、と言葉を添えたが、何よりこの数日は自分の居場所を伝えておきたかった。
当然、翌日大阪を発つ前も連絡を入れた。
「今後は電話での連絡が主になりますが・・・」
以後、定期的に連絡を入れ、お客様には封書で領収書と交通費の金額を記したものを送ってもらう。
そしてその金額を入金手配する。この打撲、筋肉痛のような症状というのは完治する状況が見えてこない。
本人の意識の問題、そしてある程度年齢を重ねた方が痛めるものであるからなかなか治るということはない。
まして筋力を鍛えるということはまずしないから、体が以前より丈夫になるということは稀だ。
医師も患者が痛いといえば、無下にすることはできないだろう。
秋になる頃、痛みはほとんどなくなったとおっしゃっていたお客様も、
冬に入る頃には「寒さのせいか首が多少痛む」と伝えてきた。
「ご安心して、治療に専念してください」当方は不安感を与えないようにするだけだ。
冬に大阪に行く用があり、その折お見舞に伺った。明るい表情だった。
「だいぶよくなってきました」「それはよかった、でも焦らずにゆっくりと・・・」
おそらく万一痛みがぶり返したら、どうなる、という思いがあるのだろうと想像する。
おそらく大丈夫だろう、でも・・・
今回の場合、我々は完全な加害者である。
施設で、備品で、という訳ではなく、人為的な行いでお客様に怪我をさせてしまった。
だから、こちらから「これで」と切り出せない。「大丈夫」という言葉を待つしかない。

そしてその言葉が・・・

事故から1年2か月。3度目の訪問はお客様からの要望だった。
完全によくなったわけではないだろう。ここが潮時、妥協する時期、そんな気持ちだったのではないか?
「もうこれで結構です、もう大丈夫だと思います」という言葉をいただいた。
もし何かあれば、ご連絡くださいと申し上げたが、
「これから急に痛くなることもないでしょう。本当にありがとう」笑顔だった。
その後一度手紙を出し、正月に年賀状を出したが、返事はなかった。
大丈夫という無言の言葉だろう。怪我を負わせたスタッフは数年後、幕張に異動する。
その際、「あの一件、本当にすみませんでした。自分のために何度も大阪まで足を運んでいただいて・・・」
ずっと聞きたかったんだろう「できれば、お話の経緯聞かせてもらえますか?」と、尋ねてきた。
いいスタッフになるだろう。
 

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