Category カテゴリー

「言葉の階(きざはし)」第三十四章:ガス橋まで

2020年4月7日 火曜日

「言葉の階(きざはし)」第三十四章:ガス橋まで

特別連載企画 第三十四章 ~ ガス橋まで ~

 

幼稚園に通っていた頃、身体を使う運動をするとき、
園のスタッフの方々はゲームのような要素を取り入れていたようだ。
たとえば、「ハンカチ落とし」。たとえば「だるまさんが転んだ」。
園児たちが元気に身体を動かすことに興味がわくように、幼児教育に取り組んでいたのだろう。
 ところが、私はある種意図をもって行われる運動で、どうにも苦手なものがあった。
「椅子取りゲーム」。これが駄目だった。

幼い頃から近所の年上のにいちゃんたちと遊んでいたから、体力はあった。
必然的に運動神経も人並み以上のものはあった。
脚力、反射神経も悪くなかった。が、極端に人目を気にする子供だった。
妙にすましていたこともあり、我関せずといった雰囲気を漂わす感じで、
かわいらしさを振りまく子供ではないことはたしかだった。

 なぜ駄目だったかというと、椅子を確保しようとして、
仕損じてしまったとき、その一部始終をみんなに見られてしまった。
という意識をなぜか感じてしまうのだ。
そんなこと、たまたま目に入ることはあっても、目を凝らして見ている人なんているわけもないだろう。
なのに「人前で恥ずかしい想いをした」
「みっともない姿をさらした」そんな想いが自分の気持ちの中で、強く残るのだった。

(さらに…)

「言葉の階(きざはし)」第三十三章:花野

2020年3月12日 木曜日

    「言葉の階(きざはし)」第三十三章:花野
      特別連載企画 第三十三章 ~ 花野 ~




 地名で最後に「野」という言葉がついていると、言葉が締まるような感じで落ち着く。
安曇野、津和野、遠野という地名は全国区の知名度で、観光地としても人気がある。
言葉のリズムに日本らしい響きがあって、足を運ぶ前から日本的な情景が目に浮かぶ。
これらの地域より小さないわゆる町名でも奈良の春日野、京都、嵯峨野。狭い地域では化野。
どうやら「お」という母音で締めると、日本的な語感を呼ぶと勝手に思い込んでしまう。

 今年夏の終わりから秋にかけて、日本列島は台風の通り道のようになっていた。
「10年に一度の大型台風」という表現から「50年に一度」「100年に一度」という表現になり
、その被害が本当に甚大なものであることを伝える。
そして「最大級の被害」をもたらすものとして流した表現が、
毎年日本のいずれかの地に訪れるものだから、「去年もそんなこと言ってたよね」と、
毎年この時期の「慣用句」のような印象になっている。
早晩このような気候が当り前になるのだろう。

 以前、夏と冬の間に秋があった。
 同様に冬と夏の間には春があった。

 ここ数年、半袖のYシャツをクリーニングに出すときでも、秋が深まった時期になると、
ジャンバーのようなものを羽織るようになる。
こんな晩秋の頃まで半袖を着ているのがおかしいのか、
温暖化の影響か、つい2週間ぐらい前は、半袖がちょうどよかった。

 「花」といえば春の桜を指すのが一般的だ。
この時期、梅、桃、リンゴ、杏子と白から淡いピンク、
そして暖色のピンクの花が次から次へと開花する。
私も山梨・笛吹川沿いの地域を春のこの時期に足を延ばしたことがある。
あたり一面に桃の花が咲く姿はまさに桃源郷だった。
そんなわけで初めて「花野」という言葉を耳にした時、
イメージした景観は鮮やかな白、黄、ピンクの花に包まれた里の姿、まぎれもなく春のそれだった。

 ところが、春のページをいくらめくっても「花野」という言葉はでてこない。何のことはない。
これは秋を表わす言葉として載っていた。
全く分かりにくいなあと思いつつ、解説文を読んでみたら納得した。
山上憶良の「秋の野の花を詠める」と記された一首だ。

「萩が花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝顔の花」

あまりにも有名な万葉集に収められている歌が説明文に添えられていた。
秋の花はさまざまな色で咲き誇る。赤、橙、黄いろ、それだけじゃない臙脂から青に至る、
まるで色を当てるがごとく百花繚乱の様だ。
春は「里を彩り、野を染める花」というイメージとすれば、
秋は「花それぞれの色を身にまとう野の風景」とでもいうべきか。
つまり春は花そのものに価値を見、秋は花という言葉は野を飾るものとなる。
だから野の色、山の色というそれだけで秋の山野を表すことになる。

 考えてみると、漢字をしっかり理解すると、モノの形や意味が浮かんでくるような気がする。
私が今住んでいるところの近くに「向河原」という駅がある。
おそらく、多摩川を挟んで武蔵の国の住人が
「向こうの河原に・・・」 などと言葉を発したのだろう。
もし、川がなければ、「この草で生い茂った原っぱは」と言い、
漢字は「向ヶ原」という文字を当てはめるのだろうか?

 Typhoonという言葉がまだ日本に入っていなかった頃、
今日の「台風」は「野分」と称された。
風雨荒れる台風はもちろん、強風が吹きすさぶものまで総じて「野分」と呼んだ。

「野を分けるもの、私の解釈からすれば秋を分けるほどのモノ・・・だから
今年のように台風が多いと秋はなくなるんだ」と友人の前で、一人悦に入って口にした。
「何言ってんだ」と相手にされなかった。

「言葉の階(きざはし)」第三十二章:ステイタス

2019年11月26日 火曜日

「言葉の階(きざはし)」第三十二章:ステイタス
特別連載企画 第三十二章 ~ ステイタス ~

 初めてレストランでフォークとナイフを手にして食事をしたのは、大学1年生のとき。
横浜・外人墓地の前にあるレストランだった。
たかだかハンバーグなんだから箸でいいじゃないかと思うのだが、
店の性格上そうはならないのだろう。
「やっぱり箸が欲しいな」と最後までつぶやいていたが、
「私だって、外でこうして食べるのは初めてなんだから。」と、
同行の女子に言われて、あっさり落ちた。
 入学式からまだ一月、同じクラスの男女2名ずつ、これから過ごす大学生活は楽しみに溢れている――
そう予感させるような状況だった。いささか緊張した面持ちで、
周りを意識しながら、神経を皿に集中させる。
なんとか無様な姿をさらす事なく食事を摂ることができた。

ただその時、自分の頭にあったのは数日前に高校時代の恩師と足を運んだ「新宿 中村屋」での話だ。
 恩師のお父様というのは大学の教授で、口数は少ないが、厳しかったようだ。

食べるものもそんな贅沢はさせてもらえなかったと聞く。
「おい、何にする?」と、いきなり恩師に尋ねられるが、
カレーの専門店で、何を・・・ビーフ、ポーク、チキンとあってもカレーだよな。
ところが「え、こんなにあるんですか」当時、我々の世代は、誰もがカレーは好きだったような気がする。
御多分にもれず、私もそうだったが、外の店で食べるものという意識はなかった。

「俺が大学に通っていた頃、中村屋でカレーを食べるというのが、
  一人前になったと認めてもらえるようなものだった。」
「・・・」
「だから卒業して、給料を稼ぐという立場になってはじめて口にするものだった。」
「それは、その当時の風潮?それとも先生の個人的な・・・」
「ああ、親父の意向だ」
今日では、欲しいものはほとんど手に入れることができる。

嫌なことには関わらずに過ごすことができる。
お祝い事は、何かを達成したかどうかによるものではなく、ただ時期がきたから、
お祝いの席だからということで、モノが供され、お祝いの品を手にするのが一般的だ。
 横浜外人墓地の前のレストランに行った時、
私は初めてナイフとフォークを手にして少し大人びた気持ちになっていた。
しかしながら、自分自身の成長過程の中にあることなど全くないことは明らかだった。

ところで、今日我々の生活の中で目先のことでいい、目標を設定してそれを達成するために
努力を重ねている人はどれくらいいるだろう。
恩師からごちそうになった「中村屋のカレー」はその後しばらく口にすることはなかった。
あんな話を耳にすれば、達成感もない自分が、大人になったと自覚することなどない状況の中で、
食することが憚れた。
同時にそんなステイタスのようなものを掲げ、
こだわりを持つことを「だせ―よな」と口ではつぶやきながら、
毅然とそんな状況に身を置ける人が、何か羨ましいような気になった。

漠然と普段毛嫌いしている「真面目」「一生懸命」という言葉がこの時、とても輝いているように思えた。

 

「言葉の階(きざはし)」第三十一章:なごり雪

2019年4月26日 金曜日

「言葉の階(きざはし)」第三十一章:なごり雪

特別連載企画 第三十一章 ~ なごり雪 ~


高校時代、飛行機というものはかなり離れたところに行くときに使うものだ、という印象があった。
たとえばハワイ。結婚というものは一生に一度、そして人生最良の旅行がハワイへの新婚旅行。
国内で利用するのなら、北海道、九州、四国。陸続きではないから、乗り物を変えなければならない遠方の地。

高校2年生のクラスは非常に居心地のいいクラスだった。
クラスメートは男女関係なく、誰とでも話しやすい雰囲気があった。
これは私のように、特定の女性と仲良くなることが不得手の男性にとってはありがたいことだった。
まるでテレビの青春ドラマのように、当時の出来事が思い出される。
武甲山登山、文化祭、授業ボイコット、修学旅行、スケートリンク、学級閉鎖という様々な出来事の合間に
いくつか心に残る思い出がちりばめられている。

そんなクラスがお別れになる。アイツともコイツとも、あの子ともこの子とも・・・だけど、
本当にもう高校に来ても顔を見ることができなくなる女の子が一人いた。
クラスでもちょっと大人びていて、友達が寄ってくるようなタイプだった。
私とは特別親しいわけでもなかったが、後期にホームルーム委員をやり、クラス新聞を作っていた。
終業式の日に「今日の日はさようなら」を歌って声をつまらせ、
クラスで行った山中湖でなぜか「赤い風船」で涙し、3月下旬、彼女が四国松山に向かって発つのを見送りに、
クラスメートのほとんどが羽田に集まっていた。3月ももう終わるというのに、空港は白一色に覆われていた。
季節外れの雪が止む様子もなく、降りしきっていた。

かぐや姫の曲で「なごり雪」という曲がある。このグループの中心、南こうせつの作ったものではなく、
伊勢正三が作詞作曲。彼は例えばビートルズでいえば、ジョージ・ハリスン。
イーグルスでいえばティモシー・シュミットのような感じで、
次から次へと曲を作り出すタイプではなく、本当に自信のあるものしか発表しないという印象がある。
「22歳の別れ」「ささやかなこの人生」「君と歩いた青春」・・・染みる。
この「なごり雪」という曲は恋、愛、寂しい、悲しい、楽しい、
といった感情の起伏を表す言葉はなく、あくまで写実的につづられる。

汽車を待つ君の横でぼくは時計を気にしてる。季節外れの雪が降ってる。
動き始めた汽車の窓に顔をつけて、君は何か言おうとしている。
君の唇が「さようなら」と動くことが怖くて、下を向いてた。
この日、搭乗前に姿を見せた彼女は想いの他明るく、神妙な顔をしている我々より雄弁だった。
見送りに来た全員と握手なんかしていたから、乗り込むのがギリギリになっていた。
「椿君、椿君には・・・なんでも頼っちゃって・・・ありがとう」それでなくても、
女性の手に触れるなんてこと、めったにないのに、
途中で強く握られたものだから、思わず下を向いてしまった。付き合いはそれっきりだ。
その後、同窓会か何かで顔を合わせたかもしれないが、以前と変わることもなく、
私は「one of them」として存在するだけだ。
しかし、「なごり雪」を耳にすると、あの頃の少ししょっぱい想いがよみがえる。

伊勢正三はこの曲を作った時、
「この東京という都会と、自分の故郷大分は間違いなくレールでつながっている」と口にしていた。
どんなに遠いところでも故郷は・・・戻ることを拒まない。そうだろう。
でもあの頃、距離の隔たりは気持ちの距離感にも結び付いていた。
ちなみに「なごり雪」という言葉は俳句の歳時記、季語にはない、伊勢正三が生み出した言葉だ。

「言葉の階(きざはし)」第三十章:階 -きざはし-

2019年4月19日 金曜日

「言葉の階(きざはし)」第三十章:階 -きざはし-
特別連載企画 第三十章 ~ 階 -きざはし- ~

忘れっぽくなった。
「あ、あれ、あとでネットで調べなきゃ」と思ったことのほとんどは、忘れてしまう。
思いついたことは何かに記さなきゃとメモ帳を携帯しているが、
メモをとる習慣がないから、ほとんど活用していない。
この「言葉の階」と銘打った文章を書き始めて1年近くになる。
ホテルの経験談を書き終えて、自分が思っていること、
経験したことを書き記すことが楽しいものになっていた。

ここコミュニケーションスキル開発協会、鈴木代表に
「あと一年ぐらい、このホームページのブログに文章載せてもらってもいい?」と、尋ねると、
考えるそぶりもなく「どうぞ、どうぞ」という返答。おかげで厚かましく使わせてもらっている。

1200字程度の文字数で書き始めたが、この字数だと、けっこうスムーズに進む。
4,5編書いたところで、鈴木代表から「今回のシリーズのタイトルを考えてください」と言われた。
一つの文章の標題なら、タイトルは出てくるが、全体を通してとなると出てこない。
昔から全体を見渡してとか一貫しているテーマは、と言われるとわからなくなる。
一生懸命に考えると、どうしても、堅いタイトルになってしまう。むしろ風呂につかっていたり、
床についたとき時などに、力が抜けて想いもよらぬアイディアが浮かんでくるものだ。
この時もそうだった。
湯船につかっていたら「これぞピッタリ」という言葉に出会った――ような気がした。
ところが、風呂から出て寒いと思っているうちに、考えていたことがすっかり思考回路から消えた。
すぐに思い出すだろう。少なくとも眠るまでには浮かんでくると思っていた。
ところが全然・・・「アルツハイマーか?」「脳に何かできたか?」と真剣に考えた。
今思えば、閃いたものは、さほどのものでもなかったのかもしれない。
何しろ今だに思い出せないのだから。
「いついつまでにはお伝えするから・・・」と口約束していたその日になった。
もっとも鈴木代表は急かすわけでもなく、腹をさすりながら泰然としていた。

(さらに…)

「言葉の階(きざはし)」第二十九章:親の愛聴していた曲

2019年2月27日 水曜日

「言葉の階(きざはし)」第二十九章:親の愛聴していた曲
特別連載企画 第二十九章 ~ 親の愛聴していた曲 ~

  

40歳も年齢差がある保険会社の外交員と音楽の話になった。
「で、どんな曲が好きなの?」と尋ねると、私に気遣っているのだろうか
「サザンとか好きですね」「でも君の年齢でサザンって、ちょっと古くない?」
「自分の両親がよく聴いていて・・・それで自分も」ありがちな返答である。
前の会社でも、今のところでも私は年齢差があるスタッフと飲食を共にすることが結構ある。
そんな時、よく話題になるのが、この好きな歌手であり、曲だった。
「誰がいい?」「どんな曲が好き?」という私の問いに、帰ってくる答えは、ユーミンにサザン。
海外ならビートルズ。この返答は本当に多い。

 私の父は年末になると、必ず「懐かしのメロディ」的な番組にチャンネルを合わせていた。
「東海林太郎に藤山一郎、霧島昇に二葉あき子・・・いつも変わり映えしないな」と、よく憎まれ口を吐き、
「いつもいつも同じ歌うたって・・・」と、そこにあるものは、自分の気に入っているものと対極にあるもの、
時代にそぐわない曲というある種の嫌悪感をもって臨んでいた。

だから今日、若者が親の聴いていた曲を好きになってしまうというのは、にわかには信じられない。
たとえば、「岸壁の母」を聴いても、「赤城の子守歌」を耳にしても、
そのメロディは覚えていても、親しみをもつことはない。
悲しいかな、私たちにとって音楽で両親と共通の話題をもつことはなかった。

 容易に理由は考えられる。父の時代と私たちの頃とでは、音楽が大きく変わった。
戦前から続いてきた音楽の流れは、敗戦という事実から戦前のものはすべて排斥するようになった。
私が音楽を聴き始めた頃、父の好きな歌手が歌の番組に出ることはまずなかった。

(さらに…)

「言葉の階(きざはし)」第二十八章:坊主

2019年2月25日 月曜日

  「言葉の階(きざはし)」第二十八章:坊主
   特別連載企画 第二十八章 ~ 坊主 ~


 幼い頃、商店街を歩いていると「坊主」と呼ばれることがあった。
 少し大きくなって、モノを買うくらいの小銭をもっていると、「兄ちゃん」と声をかけられた。
けっして品のいい街ではなかったが、売る人と買う人がいつの間にか顔見知りになる街だった。
 さしずめ今の状況だったら「おっちゃん」ということになるのだろうか。
 それにしても、髪の毛をきれいに刈り上げたわけでもないのに、
ましてや剃り上げたわけでもないのに、何故「坊主」と言われるのだろう。
 辞書を引いてみると、元々はその名の通り、坊さん、僧侶を指していたようだ。
それが関西方面で男の子を「坊主」と呼ぶ習慣があって、いつしか全国的に広まったという。
おそらく事の始まりは髪形だろう。サザエさんに出てくるカツオ君のように、
以前は刈り上げた頭髪が小学生の一般的なものだったのかと思う。

 坊主という言葉がつくもので、「台湾坊主」という低気圧があった。
立春が過ぎたころ、台湾付近で発生。太平洋上を発達しながら通過。
水分を多く含んでいるので、雪粒は大きくべちゃべちゃと地をたたいて落ちる。
東京で降る雪のほとんどは、この「台湾坊主」によるものだった。
今年の陽気は寒暖の差が激しく、先日「春一番」が吹くかも、なんて言ってたのに、
今度は「この冬一番の冷え込みです」なんて言っている。
立春の後だから、冬でもないだろう。と、思うが、季節感もないこの時代、寒ければ冬と言い、
暖かくなれば春らしいと口にしても何ら違和感はなく、むしろわかりやすい。
ちなみに「台湾坊主」という言葉はほとんど耳にすることはなくなった。
国名が気象用語として使われる、しかもあまりいい天気でもないから配慮したのだろうか?
でも「台湾坊主」というのはわかりやすかった。その言葉だけで春に降る湿った雪と理解できる。
これが「春になって発生した冬型の太平洋低気圧」なんて言っていると、季節がわからなくなってくる。

(さらに…)

「言葉の階(きざはし)」第二十七章:陽はどちらに沈む

2019年2月18日 月曜日

「言葉の階(きざはし)」第二十七章:陽はどちらに沈む
特別連載企画 第二十七章 ~ 陽はどちらに沈む ~

 日本の地形はだいたい頭に入っている。
だから47都道府県の位置はもちろん、県庁所在地も頭に浮かぶ。
しかしながら私の思考回路はだいたいわかればいい、
凡そのモノや数字までしか頭にない、といったことが多い。
細かいところまで覚えようとしない。
だから、大学受験のとき、選んだ社会科の科目は
当時まだ好きだった地理でも日本史でもなく、世界史だった。
馴染み深い地理や日本史は、教科書を頭に入れるだけじゃ通用しない設問が出るような気がしていた。

 ちなみに世界史は興味がなく、受験でも全くダメだった。
あれは、高校何年の時だったか?恩師が突然、その時代を思い起こすように話し出した。
それは幼少の時の「疎開」の話。とはいえ、怖かったとか不安だったということではなく、
疎開先の新潟でみた「日本海に沈む日の入り」の光景の話だった。
つぶやくように断片的に口にした話を、私は次のように認識した。

 新潟のどこだったか、記憶にもないのだが、
日本海に面した温泉から見た夕日が何とも言えず美しかった。
できることならあの地にもう一度行きたい。

と、考えたが、どうにも合点が行かない。
当時いくら幼くても、どこに疎開したかなんて、
その後誰か大人の人に聞けば地名くらいわかることだ、なぜ・・・

(さらに…)

「言葉の階(きざはし)」第二十六章:名前

2019年1月28日 月曜日

「言葉の階(きざはし)」第二十六章:名前

特別連載企画 第二十六章 ~ 名前 ~


 今年生まれた子供さんたちにつけられた名前で、どのような名前が多かったか、
そんな記事が公になっている。

男子、蓮(れん) 大翔(ひろと) 陽翔(はると)

女子、葵(あおい) 結菜(ゆうな) 陽葵(ひより)

男女それぞれ上位三つを上げると、以上のようになっている。
――男、――夫、――子ばかりがあふれていた私たちの小学校時代と比べると、想像もつかない命名である。

 私の「益紀」という名前であるが、当時としては珍しかったのだろう。
小学校の低学年の頃からよく読み方を尋ねられたものだ。
幼い頃なら「わからない、でもまあちゃんと呼ばれているよ」と答えても、かわいいと思われるが、
いつまでも通用するものでもない。

「椿くん、何て読んだらいいんだろう、君の名前?」

と、小学校入学の時だけでなく、少し大きくなってからも訊かれたこともあった。
たまに「つばきでいいですよ」と答えたりしたが、知りたいのは姓の方ではなく、
名であることは間違いなかった。我ながら可愛い子供じゃなかった、と思う。
ただ、何度も聞かれると、またかよ、と表情に出てしまう。

親はその名を背負って我が子はどのように生きていくかと、命名する時にはいろいろなことを考える。
その名が果たして運をもたらすか、画数はいいか、占星術まで頼んで、我が子の名前を考える。
ありきたりではなく、しかし突拍子もないものでもなく、さりとてやはり「今」を感じさせる名前だ。
今は自分の名前の由来も知らなくても、やがては親の想いを知ってほしい。そんなことを思いながら命名する。

私は自分の名前が訓読み、訓読みといわゆる重箱読み、湯桶読みでないことを知ったとき、
「さすが我が両親」と感心したが、それでも「ますきくん」と呼ばれると
「変な名前つけて」「こんなわかりにくい名前のせいだ」と、やはり矛先は親に向けていた。
私の5歳違いの姉は「真知子」という名前だ。この名前を幾度となくうらやましく思った。理由は単純。

1、誰もが「まちこ」と読めること

2、当時「君の名は」が流行。「真知子」という名は誰もが親近感あり

そんな姉夫妻は生まれた第一子に「匡展」と命名した、読めなかった。
そもそも自分の名前が周囲に正しく理解された人間は、
自分の子に難解な名前をつける傾向にあるのではないか・・・と思ったが、どうだろう?
小学校に通っていた甥に「名前、何て読むんだ?と訊かれたことないか?」尋ねたことがある。
明るく「あるよ」と返答された。全く負の因子などなく、元気に。いい子だと思った。

そんな甥も40歳、1男1女の子供持ちだ。
改めて「子供の頃から、よく名前聞かれなかった?」と訊いてみたいが、
親が子供に自分の願いと想いを託したものに何ら不満などなかったのだろう。
考えてみれば、私よりずっと数多く、人から名前を尋ねられたのだろう。
子供の名前に同名はあるが、その人数分の親の想いがあることはまちがいない。
我が子の将来を案じ、願いを込めてつけた名前だ。
頂いた我々子供は、親からの大切な贈り物と考えるべきだろう。

「言葉の階(きざはし)」第二十五章:木守り

2019年1月8日 火曜日

「言葉の階(きざはし)」第二十五章:木守り

特別連載企画 第二十五章 ~ 木守り ~

 

 私の実家には柿木があった。
いや、柿木だけでなく実をつけるまでには至らなかったが、梨、桃、杏子まであったのだから、
花を愛でるというより、実利的なものを求める家の人間の性格が十分に出ていた。

 柿木は毎年100数十個の実をつけていた。
色づいた実を採るのは父や私、家ではほとんど役割のない男の仕事だった。
にも拘らず、私はこの柿という果物を口にすることができなかった。
物心ついた頃口にした柿が渋く、それ以来柿を目にするたびに、あの渋みが口の中によみがえってきた。

 子供の頃、よく「食べられないモノ」「嫌いな食べ物」を尋ねられることがあった。
そんなとき、躊躇うことなく「柿」と答えていた。当時、果物を嫌いなものとする子は珍しかったのだろう。
そういえば、ピーマン、セロリなどの野菜、あるいは魚類を好まない子供は結構いたような気がする。
私は「柿が嫌い」と公言した手前、好きでもない野菜も口に運んだ。
そんなこともあり、好き嫌いはあまりないように思われていた。

柿を収穫するのは、毎年秋も深まった時期だった。柿の実でいっぱいになったバケツが二つ三つ。
「今年こんなに取れたんだから、来年はそんなに実らないね」と、私は、来年はこんなことしないで済む。
と思ったものだが、意に反して毎年収穫作業は続いた。

 手を伸ばしても届かないところにも柿の実は色づいていた。
私は祖母に「あんなところにもあるけど・・・枝から切ってしまう?」と、
そのたびに尋ねてみたが、「あれは残しておきな」と同じ返答が繰り返されるばかりだった

 幼い頃から私は乗り物が苦手だった。
乗用車、バスはもとより時には電車に乗っても、気分が悪くなるときがあった。
保健の教科書に図解されているように胃が横たわっているのではなく、縦に伸びた感じだったのだろう。
いつも胃がむかむかしている状態だった。子供の頃のこうした体験、そして不安な想いは結構頭に残る。
私は車に乗ると、気分が悪くなるという想いが大きくなるまで続いた。

 旅によく出るようになったのは大学も後半になってからだろう。
少なくとも「酔う」という心配がほぼなくなったのはこの時期だ。
もう少し早い時期から出歩いていれば、感性も豊かになったのだろうし、もっと全国のことを覚えたことだろう。
それでも、田園地帯が広がる日本らしい風景の中に身をおくと、落ち着く。

 学生生活も残りわずか―――凩が吹き、寒さが身に染みるように感じ始めた頃、風に誘われるように旅に出た。
車窓から我が家でも見慣れた風景が目に入ってきた。
すっかり葉を落とし裸木となった柿木に、枝の先に実が残っている。
「これって、鳥のエサになるんですね?」
「いやいや、昔からの風習でね…来年もよく実がつくようにっていうまじないというか、祈りみたいなものですよ」
そうなんだ。「木守り」って言葉をこの時知った。
日本らしいモノを、命を慈しむ優しい風習だ。
木の新生を念じて、実をひとつ残して収穫を終わりにするって・・・いいよね。

 ところで、柿の実であるが、デザートなどで出てくる。
最初は口をつけなかったが、食すと、意外にうまい。あまり言わないが・・・
▲ページの先頭へ戻る