「言葉の階(きざはし)」 第七章:商店街
「言葉の階(きざはし)」 第七章:商店街
特別連載企画 第七回
~ 商店街(2) ~
幼い頃過ごした町はその佇まい、道、店等いつまでも記憶に残る。 どこにどんな抜け道があって、どこにどんな友人がいたか鮮明に覚えている。 いい年齢になってから居を構えたところは、暮らす歳月が長くなっても覚えが悪い。 あちこち歩いても馴染みの店ができても、幼い内から日々の暮らしを過ごした町ほど強く心に残っているものはない。
野口五郎の「私鉄沿線」という歌曲がヒットしたのは高校を卒業して間もない頃だった。 都内に住む人間の多くが私鉄沿線であったこの頃、 結構多くの人がこれは自分が利用している沿線ではないかと想像したような気がする。 「池上線」というより具体的な沿線名を歌った西島三重子の歌が出たのは、そのさらに1年後だ。 まさに、この歌詞で記されているところは自分の町だ。と思ったが、 何年か後作詞者から、「あれは池上が舞台です」と公表された。 やはりこういったものは、聴き手のイメージに従うものである以上、知るべきではなかった。
歌詞の中で車両に風が入ってくるといった、 いかにも古い車両といった姿を綴っているので、結構クレームも出たようだ。 そういう事実を踏まえても、男女の想いを詞に託せば共感する。 今時こんな車両と疎んじられていた池上線がその不便な旧式であるが故に人々に注目されることとなった。
昔ながらの商店街は、不便ゆえに言葉を交わさなければ、商いという行動が成立しない。 駅舎は機械化が不十分であるがために、人の力に頼らざるをえない。 いつまでたっても旧態依然の風情を残して、町は成り立っていた。
スーパーマーケットのようなところで買い物をしていると、老化が進むという。 買い物とは、商品を手にするたびに、買いたいという衝動と押さえようという自制が働く。 そして購入に際しては、財布から適正なお札と小銭を用意する。 この思考過程と行動パターンがボケ防止にいいようだ。
世の中便利になっている。スマホひとつでレジに足を運ばなくても、買い物ができるようになり始めている。 テレビの報道番組でレポーターが「これで手間が省ける」「ストレスがたまらない」と笑顔で話していた。 しかし、便利になる――それがストレスのたまらないことになるのだろうか? 言葉を交わすことなく、スマホをかざすだけで物事を処理することが、人間にとって、望ましい方向なのだろうか?
幼い頃歩いた道が記憶の中に強く残っているのは、その道が自分の足で歩んだからだ。 今日は違う通りから行ってみよう、ここの番地はこうだから・・・と自分の目と足でその道を覚えていった。 商店街は、そして間違いなく学びの場でもあった。