「言葉の階(きざはし)」第三十八章:西瓜
特別連載企画 第三十八章 ~ 西瓜 ~
夏休みも残り日数を指で数えられるようになると、 よく地平線から雲が勢いをつけるようにして、立ち上るのが目に入った。 小学生のころ、間違いなく夏は今日のような過酷な暑さをもたらすことはなかった。 しかし、季節の訪れを告げるように、8月お盆明けには夕立が降り、 雨の後は心地よい風が吹くのが定番だった。 いや印象としては、夏盛りの昼日中でも子供たちは外で遊んでいたし、 夕方近くになると、あちこちの家からお母さんたちがバケツを手にして地表に水を打っていた。 いつまでも我が家に帰ってこないわが子を見ると、 思い出したように「そろそろ家に入りなさい」と声をかけるのだった。 あの頃、子供たちにとって、真っ黒に日焼けした顔が「元気印の勲章」で 今日のように、「そんな黒い顔して、熱中症は大丈夫?」と心配されることもなかった。 その「元気印」の黒い顔をした子供たちをあまり見かけなくなった。 肌を焼くことは皮膚によくない、癌になる恐れがある。 遊ぶより学ぶこと、環境のいい涼しい家で。 集団より個の過ごす時間を求めるようになった。 しかもより快適な勉強に集中できることを目的としていた。 家での飲み物は「カルピス」と「麦茶」だったのに、 「これ何?」と思わず尋ねてしまう代物に変わっている。 朝の情報番組でやっていた一杯350円の代物・・・。 なるほど自信をもって、人に見せられる。 夏休みの間、子供たちは近所の家を順番に回って遊び呆ける。 中には朝から夕方までということもある。 あいにくというか幸いというか我が家に来る子はそんなに長逗留はしなかった。 今思えば面白くなかったのだろう。 あの頃、みんなで何かやろうというそんな雰囲気を子供でも感じていたのだろう。 居心地のいい家とそうでない家と、たかだか小学校低学年の子供でも感じ取っていたのだろう。 夏の果物というと、真っ先に「西瓜」と思う。 一行にも満たないこの表現で間違いが二つある。 一つは「西瓜は夏のものではない」正しくは「秋」。 そして「瓜」という漢字が当てられているように「果物ではなく野菜だ」。 でもどう考えても夏を代表する味覚であり、水分たっぷりの果物と認識する。 この西瓜が今日ではプラスティックの容器に 八切か十切で入りスーパーで販売されている。 なんでもかんでも「子供のころ」と表現するのは憚れるが、 まちがいなく子供のころ店先で売られている西瓜は丸々とした大きなもので、 けっして赤い実をさらしてはいなかった。 それが、いつのころからか小さい(小玉西瓜)が中心となり、やがて1/4,1/8と 原型をとどめず、薄さでも競うのかというカットものが中心となった。 気が付けば各々家は三世代同居から核家族に変わり、 いつしか老いも若きも単身という世の中だ。 あの頃、何かを食べるとき、それをかこんで自分の手元に供されるのが楽しみだった。 西瓜はその代表で中央頭の部分から包丁で下に切り落とす。 すると水分をふくんだ赤い実が目の前に広がる。 西瓜割は海で行うのがお似合いだが、子供が多いと家の方でもやった。 もう冷たくもないのに、あてがわれた西瓜を食べると 「うめー」と口の周りを赤く染めていたものだ。 ちなみに西瓜の文字通り、「西はどっち?」と尋ねて 東側から私は「西瓜割」に臨んでいた。 西瓜という漢字は知ってるぞ、ということの誇示だろう。いやなガキだ。 南瓜という漢字を覚えたのはずっと後のことだし、 東瓜、北瓜はどう読むのかわからない。