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「言葉の階(きざはし)」第五章:『頑張って!』が気持ちをふさぐ

2018年5月31日 木曜日

特別連載企画 第五回
~  頑張って!』が気持ちをふさぐ 

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受験のシーズンになった。この時期になると、受験生にはこんなことを配慮しよう、
といった内容に触れたものが報道番組やワイドショーでコメントされる。
たしかに自分が受験生だったとき、励ましの言葉、奮い立たせる言葉をかけられると、
意欲よりも、煩わしさのほうが先に立っていた。
「うるさいな、黙っていてよ」
「わかってるよ」とかなり棘のある言い方になっていた。
先日、朝の番組でこんな特集をやっていた。
「受験生にかけてはいけない言葉」。
いろいろあるだろう。「落ちる」「すべる」「外す」・・・
しかし、そんな当たり前の単語より、「頑張って」という言葉が最も忌むべき言葉になっていた。
それまでに、「今日は共通一次試験、受験生の皆さん、頑張って!」なんて言っていたキャスターが
俄かに重い表情になって、「大丈夫ですよ!」と言い直していた。

テレビや新聞などのメディアを通して入ってくる情報は多い。
我々はさほど気にも止めず、流していることが多い。
しかし、私の母のように、社会に出ず、世相に疎い人々はテレビで放映されたもの、
新聞で活字になったものには絶大の信頼を寄せてしまう。よく特集を組むことがある健康のこと。
どのような食物や薬品が身体にいいか?そのような番組を観た人も多いだろう。
「アガリクス」「お茶」「コーヒー」。「チョコレート」というのもあった。
たとえば「お茶」は体内の不純物を流して、美容、コレストロールの制限にはいいだろうが、
体内に十分な水分を補充する、となると逆効果だ。
しかし、特集では当然「いいこと」を流すばかりだ。そうなれば当然、視聴者は絶対的な良薬としてみてしまう。
食物の効能、効果をその日のテーマに沿って示すのだから、当然の成り行きだ。
しかし、食物や薬品に絶対的、万能のものというのはあるのだろうか?
同様に言葉や歴史上の出来事というものも状況や時代によって、評価が変わってくるものだ。
南北朝時代の楠木正成など時代によって評価は変わるし、
坂本竜馬だって「竜馬がゆく」によって広く知られるようになった。
言葉も使う人の表現によって、意味が変貌を遂げることもある。
組み合わせて新しい言葉を生み出したり、意味が変わったり・・・そう言葉は生き物のようなものだ。
そう思うと、言葉を本来の意味で大切に使用したいと思う。
いつの間にか「頑張れ」という言葉が「人を励ます」ものではなく、
「人の気持ちを圧迫する表現」となるときだって来るかもしれない。
私はメディアの発することに何ら疑問も持たず、鵜呑みしてしまうことが恐ろしい。
多くの人が、その言葉本来の意味でなく、自分たちが造作したもので理解されれば、
それが一般的なものになるかもしれない。
「頑張れ」という言葉はかけがえのない言い回しだ。
スポーツで自らを、相手を讃えるこのような言葉は唯一無二のものだ。

そういえば、形のない出来事に対して「〇〇という形が・・・」と
報道番組でキャスターが当たり前のように話している。近く標準的な表現になるだろうな。

「言葉の階(きざはし)」第四章:我慢することで見えてくるものも

2018年5月24日 木曜日

特別連載企画 第四回

~  我慢することで見えてくるものも 
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ティールーム、窓際の席に若い男女が向かい合って座っている。
交わす言葉もほとんどなく、下を向いてスマートフォンに興じている。
たまに顔を上げて一言二言。
二人の会話は口に出して語る言葉でなく、スマートフォンに並ぶ文字によって進められている。
私たちが若い時代に携帯電話はなかった。
多くの家庭は三世代が同居し、家にある通信機器はダイヤル式の固定電話が1台あるだけだった。
電話というものは連絡などが必要な時に使うものであって、
プライベートな会話をするときに使うものでも、
ちょっとしたよもやま話をするためのものでも、少なくとも我が家ではなかった。
それでも学校では、電話連絡網のようなものが配布され、
気になる女の子の電話番号も必然的に目に入ってくる。
その相手にちょっと連絡したいことがあったり、聞きたいことがあれば電話できる条件はそろっていた。
テレビは家族そろって観るものだった。だから野球、大相撲、プロレスなどのスポーツ中継。
大河ドラマや日曜劇場などの一家団欒を表すような番組をどこの家庭でも観ていた。
今じゃ考えられないが、大晦日の紅白歌合戦が80%程度の視聴率をあげていたのも、
大河ドラマが安定した視聴率を上げていたのも、
この三世代同居という当時の家族の在り方によるものが大であった。
お正月の準備も済ませた大晦日の夜、そして毎日曜日の夜は用事もなく、
家族そろってテレビを観ようという感じだった。
当然ながらテレビを目にはしていたが、観たい番組を観るということではなかった。

電話も同様だった。「食事の時ぐらいは控えろ」であり、
「昼日中からそんなにかけるところがあるのか」という言葉が投げかけられるのが常だった。
今日のように、観たいものがいつでも観られる、話がしたいときに話すという時代ではなかった。
そんな感じだからまれに女の子に電話する時は緊張する。
胸の高鳴りが激しくなればなるほど逆に恐怖心が芽生えてくる。
すなわち、もしお父さんが受話器を取ったらどうしよう、
こんな夜にどういった要件かと尋ねられたらどうしよう、
そんな思いの末、呼び出し音が何度か鳴るうちに「今日はいいや」と自分に言い聞かせて、
受話器を降ろすこともしばしあった。
「我慢する」「相手の状況を慮る」人に囲まれた生活をしていると、
そんなことを頭に入れておかなければならない。

しかし、今日のように個人主義が強くなり、核家族化が一般的になると、そんな意識は希薄になる。
たとえば電話をかけて相手が出たときにどういった言葉をかけたらいいのか、
たとえば夜何時ごろまでなら電話をかけていいものか、
そんなことを今の若い人は思っているだろうか?話したいことがあれば、いつでも話せる。
伝えたいことがあれば、何時でも可能な今日。
かえって、会えることのありがたみを忘れるようになってしまったような気がする。

私たちは・・・そう、いくらでも話すことがあったかな。

「言葉の階(きざはし)」第三章:三脚

2018年5月18日 金曜日

特別連載企画 第三回

~  三脚
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以前、大学で講師をしていた時、短期大学という女子ばかりのクラスだったからメールアドレスはオープンにしていた。
これが男子ばかりのクラスだったら、こうはしなかったろう。
こっちは渋い中年のつもりでいたが、自分の親父よりも年上の私のことをどんなふうに見ていたのだろう。
それでも、時折授業のことを質問してくれる生徒もいて、そんな時は勇んで懇切丁寧な返答をしていた。
二十歳前の女子大生。
身体は成熟していても、精神状態はまだ高校を出たばかりで、すぐにキャーキャーと騒ぐ。
まさにアンバランスな状態。
勉強というものを押し付けられる高校教育から出たばかりの彼女たちにとって、
自分の責任のもとに授業を選ぶことは多少の自由も感じたろう。
そしてアルバイトに精を出して、その報酬を手にすること、車の免許をとって、
自分のハンドルさばきで道を進んでいくこと。
どこか大人になったような気になってしまうのはごく自然なことだ。
夏休みに入った時期に、そんな生徒の一人からメールが届いた。
夏休みを元気に過ごしていることが感じられる文面だったが、
高校時代と比べ、明らかに自分自身も成長していると感じていたのだろう。
長い時間アルバイトに励み、休みには羽を伸ばしている。
でも、親は以前と変わりなく自分に注意を促す。
そんなことにストレスを感じている、といった内容だった。
私は、子供の躾に関してはあまり偉そうなことも言える立場でもない。
むしろ子供に声をかけるご両親がすばらしいと思ったが、思うこともあったのだろう。
立場上偉そうに返信した。親の気持ちを汲んでもらえるように。
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子供を可愛くないと思う親なんていないだろうね。
ただ、その表現方法は知らないということは多いかもしれない。
親は周囲が思うほど、大人じゃないし、しっかりとしたものじゃないでしょうね。
子供にも親のそんな面を隠すことは難しいと思います。
そして、いつまでも子供のときの想いを抱きながら、
夢のかけらになってしまったようなそんなものを大切にしていることもあるんですよ。
考えてみれば、両親と子は三脚のような関係かもしれない。
けっしてどちらかが支えるものでもない。
甘えている子供でも、それだけで親に安らぎを与えているのかもしれません。
とすれば、子供であるあなたは、やはり自己をしっかりともつことかな。
ストレスは自分でコントロールするもの、少なくともそう心がけるものだと思います。

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親子の関係とは微妙なものだ。
口うるさく言えば嫌がられるし、あまり声をかけなければ、距離が広がっていく。
三脚というのはご存知の通り、足3本で重心がしっかりしているものだ。
その安定感は4つ足や5本足より堅固だ。
しかし、それが一つでもなくなってしまうと、崩れてしまう。
子供として親を一人の人間としてみてもらいたかった。
さほど時を経ず、「よくわかりました」そんな返信がきた。

「言葉の階(きざはし)」第二章:フィギュアスケート

2018年5月9日 水曜日

特別連載企画 第二回

~  「言葉の階(きざはし)」

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■フィギュアスケート
テレビのスイッチを入れたら、フィギュアスケートの競技が行われていた。
だがなんか変だ。音楽は流れているが、解説なり、実況の人の声が流れていない。
故障か?ボリュームを上げてみたが、音楽が流れているのだから、これが正常なのだろう。
番組がチャップリンの時代に遡って、トーキーになったわけでもあるまい。
と、「トリプルアクセル」「ダブルトーループ」いきなり解説者の声が流れてきた。
故障じゃなかった。さほど長い時間じゃないのだろうが、
途中から番組を観て、沈黙が続くと長い時間のような気がする。

それにしても、ジャンプの種類、技術の名称だけを言われても、一体何のことだかわかりゃしない。
冬のスポーツ観戦といえば、マラソンか駅伝を観ることが多い。
ただ走るだけの競技だから解説者の話は多い。
特に増田明美氏は朝の連続ドラマでナレーションを担当したように、口調がなめらかだ。
「長距離ランナー何でもご意見番」とでも呼べるようなその選手のエピソードを澱みなく話す。
芸能人の誰が好き、どんなスイーツが好きなどおよそレースに関係ない話を続ける。
そんな解説に慣れているから、フィギュアスケートの解説は専門用語を並べるばかりで素気ない。
 お客様相手の商売をしていると、いつからか説明の仕方、
お客様との会話が以前と変わってきていることを感じる。
以前はお客様の関心を惹くために、面白おかしく話を進める。
というより、理屈の話は苦手だから、ある種打ち合わせに楽しみを感じるようなものにする。
そんな意識がある。打ち合わせは、進行に従って確認を進めるばかり。
それだけでも誰もが全体像がぼんやりながら掴んでいる感じだった。

ところが最近は・・・やたら分業化している。
「進行」担当「映像」担当「受付」担当・・・。しかもその担当業務に関する知識は豊富だ。
聞かれることが一般的なものならいい。ところが専門的な言葉を並べてくるのが一般的だ。
パソコンの利用応用編的なものになると、全くお手上げだ。
「すみません」とか言いながら、逆に担当業務から離れたことに触れると、その知識の泉は枯れていく。
「それは私の担当ではありません」「〇〇さんに聞いてください」と返答される。
概ね自身のかかわることに深い知識をもつ相手を求めるが、それ以外は感心をもたない。
自身が担当する業務とそれ以外の職務と見事に境界線を引いている。
目まぐるしく変貌していくビジネス社会に、我々年配の人間はついていけない。
打ち合わせと言って「無駄」な話も交えていた時代は過ぎ去り、「簡潔」にモノを言う現代だ。
「今までの経験を生かして」なんて乞われるように雇用期間の延長を望まれる人もいるだろう。
だが、どんなことを会社は求めているのか確認しなければいけない。
そう、今日の打ち合せは、スポーツ解説のように「専門用語」を歯切れよく並べていくもの、
すなわち遊びのないものが基本となっている。
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